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主に読書メモ フーコーは読んだことないです

小坂井敏晶(2011)『民族という虚構』第一章「民族という虚構」

社会心理学者の小坂井による本書。第一章をまとめる。第一章では、民族がいかに虚構に支えられているかということを、先行研究をなぞりながら示している。

 

民族と人種

 

 民族や人種は、所与のものではなく、むしろそうであるとする「主観的信念」に下支えされている。

 

人種概念を支える詭弁

 

 人種は、観察者(主に植民地の支配者)が他者を把握するために作成された恣意的な基準によって分類されている。その基準は主観的なものであり、客観的なものであることはあり得ない。しかし、その基準は役立たずであり、引いていえば理念型的に「純血」な人間はどこにもありはしない。一つの基準を基にすれば、分類は容易である。しかし、基準を2、3と導入すれば、分類は困難となる。髪の毛・肌・目・宗教などなど。例えば、ドイツ人を二人用意する。ドイツ人Aがプロテスタントであり、ドイツ人Bがカトリックであれば、彼らは宗教という人種を基に測定すれば異人種となってしまう。このように、人種や民族とはあやふやなのである。

 本質的なものであるとする詭弁には、4つ存在する。

①必ず何らかのカテゴリー化を通して、把握する。そのカテゴリーが民族となる。

②自分のなれた考えは取り入れても、慣れていない考えは取り入れない傾向が人間にはある(選択的認知)。それゆえ、偏見は維持されやすい。

③誤った信念であっても、他の構成員にも共有される。

④誤った信念であっても現実を捻じ曲げ、現実をつくりだすという、当初の誤った信念が正当化されるという悪循環。

 

民族とはなにか

 民族的同質性は内在的特性によって、意識されるものではない。むしろ、外部との異質性によって意識させられる。民族的同質性を表象するためのシンボルにこそ注目するべきである。

 

民族的対立

 民族的対立は、カテゴリー化による。同じカテゴリーに放り込まれた人間は同種の人間を贔屓にする傾向にある。民族的対立の根底にはこれがあるらしい。そして、民族の境界が緩やかになればなるほど、差異化のプロセスは強まる。

 

 カテゴリー化という考えは、ブルーベイカーに相通ずるものがあるように映る。興味深いのは、「誤った信念であっても現実を捻じ曲げ、現実をつくりだすという、当初の誤った信念が正当化されるという悪循環」があるという部分である。ブルーベイカーは、理念が制度をつくりだすことに注目しすぎている感がある。この欠点を補完する視角が与えられそう。とはいえ、心理学の実験でこうだったというのは、民族などのスケールにも適用可能なのかという疑問がある。