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主に読書メモ フーコーは読んだことないです

小坂井敏晶(2011)『民族という虚構』第二章「民族同一性のからくり」

 いよいよ本章から、小坂井の議論が本格的に展開され始める。ブログ主は社会学を四年間にわたって、勉強してきたわけだが、小坂井の議論は社会学の議論と似通った部分があるとはいえ、全体として全く性質が異なっている。生物学などの知見を借りる等、ヒトという生物が抱える根本的な問題として、「民族」を分析するという手法は新鮮であった。

 

イントロダクション

 民族が連続性を保っているとされる根拠として、次の三つがよく援用される

①個々を超越する何らかの本質が存在する。

②構成員間の血縁連続性によって維持される。

③民族を構成する個人は入れ替わるが、文化的連続性がある限り、民族同一性は保たれる。

本章では、以上3つを検討していく。

 

民族は実体か

 本節では、「①個々を超越する何らかの本質が存在する」について検討される。ルソーは社会を有機体として、生物の比喩を用いながら、素描する。しかし、これはルソーは妥協の産物としての比喩表現であるし、個人主義が当たり前となった現代では、個人を超越する社会など考えようがない。

 では、社会学の始祖の一人に数えられるデュルケームはどのように社会-個人関係を描いたのだろうか。彼は、集団的行為は個人的行為と区別して研究すべきとした。しかし、社会は個人を超越する実体として存在するという訳ではない。社会現象を個人の行為に還元しないということと、集団の実体性を否定することは矛盾しない。

 この点において、ジンメルは次のように述べる。

 

 

  「全能の知」であれば、社会の究極の要素である個人に着目して、その関係群を 紡ぎだすことが可能である。しかし、それはあまりに煩雑であり、人間がなしえるものではない。それゆえ、国家・法律・流行・・・は単一の実体であるとしても、それは手続きの妥協としての戦術として容認される。

 

 

 確かに、社会現象は諸個人の産物である。しかし、ひとたびシステムが作動すると、それは自律的で客観的な外力として現出する。とはいえ、社会現象は諸個人の関係から出ずるものではあり、それらに注目する必要があり、民族を実体として措定することは出来ない。

 

血縁神話

 本節では、「②構成員間の血縁連続性によって維持される」について検討される。血縁が維持されているというのは、習慣・制度・文化という制度によって維持されている(「伝統の創造」)。血縁の連続性は、実際にはまるで維持されていない例を挙げれば、暇がない。ex:フランス人のうち三割が外国にルーツを持つ。戦前の日本における「多民族神話」。イスラエルに在住する非ユダヤ人(キリスト教徒)。ユダヤ人と認定された黒人たち(ファラシャ)。

 

血縁の意味

 血縁は主観的なものでしかくなく、社会的に構成される虚構の産物であり、集合的記憶と密接な関係がある。そして、それをフィクションではなく、実体たらしめるのは諸制度である。朝鮮・日本の家制度が好例である。朝鮮は「本貫」・「姓」を同じくする者同士の婚姻を禁止することで、「父性血統」を維持するというフィクションを有している。日本では「養子」が認められるなど、より形式的機構としての側面を備えている。

 日本のこうした形式的家制度を理解するために、カントロビッチ・丸山真男折口信夫をたどっていこう。カントロビッチは共同体のメンバーが入れ替わっても、そこに内在する使命は消えず、やがて国王もそこに屈するようになり、国王の肉体が滅んでも、国王の本質は死なないと指摘した(「王の二つの身体」)。丸山真男天皇は、自由な政治的主体として表象されず、万世一系の皇統を継承し、皇祖皇宗の遺訓によって統治する機構とした。折口信夫は「天皇霊」なる未来永劫に存続する唯一の本質が宿るための単なる質量に過ぎないとした。

 血縁は婚姻を基礎として、存続するので、外部から新規のメンバーを迎える他ない。しかし、現在の構成員が誰であるかは集合意識の後景に追いやられる。その際に用いられる論理的飛躍は、「王権神授説」・「純粋人種」・「血統」などの虚構によって補われる。

 

常に変化する文化

 文化の連続性もまた、「伝統の創造」によって支えられている。ex:国語、キルトなど

 

心理現象としての同一性

 民族のメンバーは絶えず入れ替わる。日本では、100年程度でまるっとメンバーが入れ替わる。常に入れ替わるに関わらず、同一性が維持されるのだろうか。答えは、至極単純だ。その速度があまりに遅いのである。また、ヒトは季節によって意識が断続されるわけではないので、なおのことである。

 変化と同一性が両立させる可能性として次の二つが検討されてきた。

①常在不変の実体

②①を否定し、錯覚とする。

小坂井は②の立場をとる。②は、主観的な立場である。しかし、客観から切り離されたものではない。間主観的なものである。同一性と変化は、主観―対象―他者関係から、理解されるべきである。

 虚構の物語を無意識的に作成し、断続的現象を常に同一化する運動が無ければ、連続性は我々のまえに現れない。民族の記憶や文化と呼ばれる表象群は常に変遷し、一瞬たりとも同一性を保っていない。したがって、結局のところ我々が問題にすべきは、集団的同一性がどのようにして変化するかではなく、虚構の物語として集団的同一性が各瞬間ごとに構成・再構成されるプロセスの解明だ。