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主に読書メモ フーコーは読んだことないです

筑豊朝鮮人鉱夫 1910~1930年代 労働・生活・社会とその管理』

序章 課題と方法

 

1.問題意識

戦前において主なエネルギー源を提供していた鉱業において朝鮮人は不可欠な存在であった。1980年代以降、外国人問題が取り沙汰されるようになると、在日朝鮮人研究は長足の進歩を遂げるようになる。

→自立的・自給的な社会が形成されるようになったということが明らかになった。

 

朝鮮人の生活実態は多種多様であった。佐々木信彰は朝鮮人労働者を次のように分類した。①職工、②土工、③鉱夫である。そのうえで、これらを都市とその周辺部の工場・土木建設作業現場で働く職工と土工を「都市居住型」、非都市部の炭鉱や労働現場で働く土工と鉱夫を「現場居住型」に振り分けている。

→先行研究で明らかにされてきたのは、「都市居住型」とサービス業に従事する朝鮮人の実態。

→他方で、朝鮮人鉱夫の存在にはさしたる関心が向けられてこなかったと思われる。

→企業に生活空間の提供される、「都市居住型」朝鮮人の生活実態とは異なる様相を見せていたはずであり、都市部の朝鮮人社会が介入する余地はなかったと考えられる。

→企業は雇い入れた朝鮮太刀のネットワークや社会関係資本を管理・介入・再編成する存在であった。このように捉えれば、炭鉱という空間は、すぐれて朝鮮人たちの社会や結合空間をめぐるせめぎあいの舞台として浮上してくる。

→「都市居住型」朝鮮人のイメージが一般化されがちな、在日朝鮮人史研究において、より多角的な視点を提供することができよう。

 

目的と意義

目的

朝鮮人鉱夫の総数が拡大し続けるという状況は、鉱業界のいかなる状況を示すものなのかを解明する。

意義

戦間期朝鮮人労働者の流入は、外国人労働者問題の起点となっている。今、朝鮮人労働者の存在を問い直す意義は大きいのではないか。

→戦時労務動員の歴史的前提を明らかにすることは、戦時労務動員研究の進展にも寄与するだろう。

 

2.先行研究

2.1.戦前の在日朝鮮人をめぐって

 

社会経済史的な視角から就業構造や家計状況等を主に追及

→西成田豊、河明生、坂本悠一

 

階層性、衣食住、文化などのアイデンティティに関わる諸問題を主眼に据えた

→外村大、樋口雄一 

 

これらの研究は、すべて「都市居住型」朝鮮人のものであるが、もう一つの典型である「現場居住型」朝鮮人の実態は明らかにはされてこなかった。しかし、決して無視されてきたわけではない。以下、外村・西成田・坂本の研究でいかに「現場居住型」朝鮮人の存在が描かれてきた。

 

・外村大の研究

都市部で形成される「在日朝鮮人社会」の原初的な形態

1920年代前半の土工たちの朝鮮人飯場

在日朝鮮人社会のリーダー層を、「小集団のリーダー」と商工サービス業の経済的成功者である「コミュニティのリーダー」の二類型を想定

→外村の関心はあくまでも都市部においてコミュニティのリーダーを中心に形成される社会集団。

→前者の「小集団のリーダー」は興味関心の周辺

 

・西成田の研究

朝鮮人労働者の就業構造を明らかにし、その地域別・産業別特徴を示す

しかし、そうした目配せは1920年代の分析のみ、1930年代の分析は大阪の事例のみ。

また、縁故採用朝鮮人鉱夫が団結して拒否した事例はどこまで一般化できるかには疑問の余地がある。

 

・坂本の研究

朝鮮人鉱夫に関する史料は限定的としている。

 

以上、在日朝鮮人社会に関する研究は蓄積されてきた一方で、「現場居住型」朝鮮人に関する研究は少ない。これは、従来の在日朝鮮人史研究が「出稼ぎから定住へ」という構図で捉えられてきたので、流動性が高く、飯場や労働下宿に起居する鉱夫や土工といった職種の人々は自ずと周縁化されてきたことが原因であろう。

 

2.2.炭鉱に関わる在日朝鮮人史研究

強制連行に研究が偏っている。他方で、それ以前の研究は乏しい。

・山田昭次の研究

強制労働の前史として192,30年代の鉱業と朝鮮人の関係性を描いている。また、一貫して朝鮮人鉱夫の導入の要因を低賃金性に求めている。しかし、業界や企業の事情に合わせた丁寧な議論が必要なのでは。

筑豊炭田以外の研究は、ほとんど進んでいない。

 

2.炭鉱労働史研究

田中直樹の研究

産業革命から戦時労務動員までを描く。

 

荻野喜弘の研究

第一次世界大戦期における朝鮮人鉱夫導入過程と、朝鮮人鉱夫が絡む争闘事件を、労使関係の分析に組み込んだ。

 

市原博の研究

→昭和恐慌期の三菱鉱業における朝鮮人鉱夫の淘汰に言及し、それが老朽者・無学者などの「不良鉱夫」の淘汰の一環であったと指摘。

 

西成田の研究

→技術革新と女子坑内労働の制限が朝鮮人労働者の拡大につながったと指摘。

 

丁の研究

朝鮮人鉱夫と日本人鉱夫との間に明確な格差はないと結論。しかし、労務管理の実態は明らかにされてこなかった。

 

なお、筑豊に研究が偏っていることも問題である。

 

3.視角と方法

炭鉱という場の特徴を踏まえつつ、朝鮮人鉱夫たちを雇い入れ、労働に従事させ、生活を管理したのか、その有様を明らかにすることを通じて、朝鮮人鉱夫たちの労働と生活の実態に迫るのが目的。このために、炭鉱企業によるいかなる方針のもとに、朝鮮人鉱夫の生活が成立したか、あるいは朝鮮人鉱夫の存在が炭鉱企業の方針にいかなる影響を与えたかを確認する必要がある。

賃金について

→史料の制約により把握が困難

→賃金のみで待遇の優劣を論じることは、一面的な理解に陥る可能性がある。

丸山真男 リーディングリスト

『日本の思想』の読書会を迎えるにあたって重要だと思われる文章タイトルを羅列してみる。 『集1』 ・近世儒教の発展における徂徠学の特質並にその国学との関連 『集2』 ・近世日本政治思想における「自然」と「作為」 ・福沢諭吉儒教批判 ・神皇正統記に現れたる政治観 ・加藤弘之著、田畑忍改題「強者の権利の競争」 ・福沢における秩序と人間 ・国民主義の「前期的」形成 『集3』 ・近代的思惟 ・超国家主義の論理と心理 ・福沢に於ける「実学」の転回 ・科学としての政治学 ・日本における自由意識の形成と特質 ・福沢諭吉の哲学 ・人間と政治 ・自由民権運動史 ・日本ファシズムの思想と運動 ・日本人の政治意識 『集4』 ・近代日本思想史における国家理性の問題 ・明治国家の思想 ・軍国支配者の精神形態 ・ジョン・ロックと近代政治原理 ・肉体文学から肉体政治まで ・政治学入門 ・権力と道徳 ・ある自由主義者への手紙 ・ラスウェル「権力と人格」 『集5』 ・恐怖の時代 ・支配と服従 ・日本におけるナショナリズム ・戦後日本のナショナリズムの一般的考察 ・政治の世界 ・現実主義の陥罠 ・ファシズムの諸問題 ・ファシズムの現代的状況 ・内村鑑三と「非戦」の論理 ・福沢諭吉 『集6』 ・明治時代の思想 ・現代文明と政治の動向 ・「進歩派」の政治感覚 ・戦争責任論の盲点 ・ナショナリズム軍国主義ファシズム ・政治権力の諸問題 『集7』 ・反動の概念 ・思想と政治 ・思想のあり方について ・現代の政治 ・日本の思想 ・ジャーナリズムとアカデミズム ・ベラー「徳川時代の宗教」について 『集8』 ・開国 ・民主主義の歴史的背景 ・近代日本の思想と文学 ・忠誠と反逆 ・この事態の政治学的問題点 ・安保闘争の教訓と今後の大衆闘争 『集9』 ・右翼テロを増長させるもの ・現代における人間と政治 ・近代日本における思想史的方法の形成 ・戦前における日本の右翼運動 ・国際危機と世論 ・憲法第九条をめぐる若干の考察 ・20世紀最大のパラドックス ・日本の近代化と土着 ・個人析出の様々なパターン ・明治初期における政治と言葉 『集10』 ・歴史意識の「古層」 ・近代日本の知識人 ・日本思想史における問答体の系譜 ・思想史の方法を模索して 『集11』 ・荻生徂徠贈位問題 ・日本思想史における「古層」の問題 ・闇斎学と闇斎学派 ・文学史と思想史について 『集12』 ・原型・古層・執拗低音 ・福沢における「感溺」 『集13』 ・「文明論の概略」を読む(1) 『集14』 ・「文明論の概略」を読む(2)

『フランス人とは何か』

とにかく分厚い本…。

第一章まで読んだが、正直とりあえずギブアップ。フランス史の知識が全く欠けているので、全体像を想像することができずに辛いという感じだ。まずは、フランス史のお勉強でもしよう。新書で三冊ぐらい読むか…。ひとまず、序論の議論をまとめておこう。

 

国籍、それは実際法的なものだ(p.19)。

国籍は、フランス人という概念を法的に相続させるための装置であり、その手段は以下の四つが挙げられる。

(1)生地主義

(2)血統主義

(3)住所

(4)婚姻

 

人口集団と領土はしばしば、一致しない。それゆえ、国籍の議論は混迷を極める。つまり、フランス人の範囲の画定は困難なのだ。

 

国籍、それは一個の政治でもある

国籍の立法を行うことは、フランス人の基準を設けることだからだ。このあたりの議論はブルーベイカーの議論とも被る部分がある。ブルーベイカーは、フランスの自己理解はシティズン的だから、生地主義が導入されたと結論付けた。しかし、ヴァイユはそのような議論を神話であると批判する。ヴァイユは、三段階を経てフランス国籍法は成立したとしてる。

封建制封建制により、領土内に居住していた外国人は自動的に帰化

①革命期―民法典導入により、血統主義が盛り込まれる。これにより、封建制の打破が図られ、国籍は属人的な権利となる。

②19世紀末―移民の増加と帰化の少なさにより、外国人人口が増加。血統ではなく、「社会化」、つまりいかにフランス人っぽくなっているかという指標が付け加えられる。

第一次世界大戦以降―人口減少が問題となる。これの解決のために、帰化や結婚を通したフランス国籍が付与が推し進められる。

 

福間良明(2020)『戦後日本、記憶の力学』序論

継承=忘却?

 戦争の記憶を継承することが叫ばれている。しかし、その一方であえて継承されない記憶について語られない。ありていに言えば、不都合な事実は伏せて、記憶を継承していき、調和的な美しい物語を提示していくということだろう。福間は戦争映画の変遷を例に語っていく。かつては、「兵隊ヤクザ」など軍上層部の腐敗を告発する映画が存在していた。しかし、最近は「永遠の0」など、兵士への共感を強調する映画が増加している。つまり、戦争の記憶から、「軍上層部への怒り」が欠落していっているのである。

 戦争映画の変遷からも分かるように、記憶の継承は、同時に「何を継承しないか」、すなわち「忘却」も意味するのである。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

土井隆義(2003)『〈非行少年〉の消滅―個性神話と少年犯罪―』第二章「非行キャリアの崩壊と暴発型犯罪」

不良文化の崩壊と少年犯罪

 本章は、突発型の幼稚な少年犯罪が、なぜ急増しているのかを不良文化の崩壊から見ていくという構図である。土井は犯罪を、レマートを踏まえながら二パターンに分類する。

 

①第一次的逸脱・・・偶発性に満ちている。

②第二次的逸脱・・・社会的な相互作用の産物

 

土井は、少年犯罪が②から①に移行していると主張している。双方について、詳述する。まず、②であるが、これは「学習された犯罪」と理解すればよいと思う。つまり、犯罪の手口や正当化の手段を、犯罪集団―不良グループ―の中で過ごすうちに学んでいくのである。喧嘩―暴行―を例に挙げよう。喧嘩の作法や致命的な怪我を負わせない方法を覚えていき、この犯罪行為は、所属組織のためのものであり、組織への忠誠心を示すためのものであると正当化していくのである。しかし、不良グループが解体していくにつれて、犯罪を学習する場が失われていく。

 つまりは、犯罪―とその周辺―を学習する機会が失われ、「犯罪の素人」が増えたのである。先の喧嘩をもう一度例にとれば、人とどのように喧嘩すればよいか―ひいては喧嘩を抑止するための威嚇の仕方ー、加減はその程度かが分からないものが増えたのである。それゆえ、カッとなって(偶発的に)、人を暴行し、時には死に至らしめる場合が散見されるようになったということである。彼らは、かつての「犯罪の達人」と比べれば、犯罪を錬磨する機会がないために、犯行は稚拙だし、動機も曖昧であるために、「幼稚」・「訳が分からない」と言われてしまうのである。

 

感想

①犯罪集団の解体のメタ的な背景には、後期近代への突入による個人のアトム化やコミュニティの解体があるのでは?

 

②犯罪のアトム化云々に関しては、「半グレ」に関しても言えるのでは?旧来のヤクザの求心力が失われた後、諸個人が犯罪ごとに結合していく「半グレ」が隆盛していくことになる。かれらのうち、「犯罪の達人」が育つことは無さそう。

 

③関連しそうな本

佐藤郁也(1984)『暴走族のエスノグラフィー』

かつての不良文化を知るための本

鈴木智之(2013)『心の闇と動機の語彙』

少年犯罪を「透明」・「闇」と名付けてしまった、日本社会に関する論考。

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打越正之(2013)『ヤンキーと地元』

知念渉(2018)『ヤンチャな子らのエスノグラフィー』

現代的な不良文化に関する論考

土井隆義(2003)『〈非行少年〉の消滅―個性神話と少年犯罪―』(1)

第一章 「少年犯罪の凶悪化」言説の妥当性

 

一般イメージと統計の乖離

 一般イメージ

→最近は少年による凶悪犯罪が急増している。

 

統計データ

→主要犯は増えているが、それは軽微な犯罪も含めてのことである。それゆえ、主要犯の増加をもって、凶悪犯罪の増加を語ることは出来ない。凶悪犯が増加しているという「認知」が形成されているわけがあるのでは。

 

少年たちの幼稚化

 少年たちは半人前と見なされるがゆえに、可塑性に富んでいると考えられる。しかし、現在では少年たちを一人前の人格を持っているという気運が高まっている。ところが、少年への刑事処分率は低下している。そのため、少年犯罪の幼稚化が進んでいると考えるべきである。

 

小坂井敏晶(2011)『民族という虚構』第二章「民族同一性のからくり」

 いよいよ本章から、小坂井の議論が本格的に展開され始める。ブログ主は社会学を四年間にわたって、勉強してきたわけだが、小坂井の議論は社会学の議論と似通った部分があるとはいえ、全体として全く性質が異なっている。生物学などの知見を借りる等、ヒトという生物が抱える根本的な問題として、「民族」を分析するという手法は新鮮であった。

 

イントロダクション

 民族が連続性を保っているとされる根拠として、次の三つがよく援用される

①個々を超越する何らかの本質が存在する。

②構成員間の血縁連続性によって維持される。

③民族を構成する個人は入れ替わるが、文化的連続性がある限り、民族同一性は保たれる。

本章では、以上3つを検討していく。

 

民族は実体か

 本節では、「①個々を超越する何らかの本質が存在する」について検討される。ルソーは社会を有機体として、生物の比喩を用いながら、素描する。しかし、これはルソーは妥協の産物としての比喩表現であるし、個人主義が当たり前となった現代では、個人を超越する社会など考えようがない。

 では、社会学の始祖の一人に数えられるデュルケームはどのように社会-個人関係を描いたのだろうか。彼は、集団的行為は個人的行為と区別して研究すべきとした。しかし、社会は個人を超越する実体として存在するという訳ではない。社会現象を個人の行為に還元しないということと、集団の実体性を否定することは矛盾しない。

 この点において、ジンメルは次のように述べる。

 

 

  「全能の知」であれば、社会の究極の要素である個人に着目して、その関係群を 紡ぎだすことが可能である。しかし、それはあまりに煩雑であり、人間がなしえるものではない。それゆえ、国家・法律・流行・・・は単一の実体であるとしても、それは手続きの妥協としての戦術として容認される。

 

 

 確かに、社会現象は諸個人の産物である。しかし、ひとたびシステムが作動すると、それは自律的で客観的な外力として現出する。とはいえ、社会現象は諸個人の関係から出ずるものではあり、それらに注目する必要があり、民族を実体として措定することは出来ない。

 

血縁神話

 本節では、「②構成員間の血縁連続性によって維持される」について検討される。血縁が維持されているというのは、習慣・制度・文化という制度によって維持されている(「伝統の創造」)。血縁の連続性は、実際にはまるで維持されていない例を挙げれば、暇がない。ex:フランス人のうち三割が外国にルーツを持つ。戦前の日本における「多民族神話」。イスラエルに在住する非ユダヤ人(キリスト教徒)。ユダヤ人と認定された黒人たち(ファラシャ)。

 

血縁の意味

 血縁は主観的なものでしかくなく、社会的に構成される虚構の産物であり、集合的記憶と密接な関係がある。そして、それをフィクションではなく、実体たらしめるのは諸制度である。朝鮮・日本の家制度が好例である。朝鮮は「本貫」・「姓」を同じくする者同士の婚姻を禁止することで、「父性血統」を維持するというフィクションを有している。日本では「養子」が認められるなど、より形式的機構としての側面を備えている。

 日本のこうした形式的家制度を理解するために、カントロビッチ・丸山真男折口信夫をたどっていこう。カントロビッチは共同体のメンバーが入れ替わっても、そこに内在する使命は消えず、やがて国王もそこに屈するようになり、国王の肉体が滅んでも、国王の本質は死なないと指摘した(「王の二つの身体」)。丸山真男天皇は、自由な政治的主体として表象されず、万世一系の皇統を継承し、皇祖皇宗の遺訓によって統治する機構とした。折口信夫は「天皇霊」なる未来永劫に存続する唯一の本質が宿るための単なる質量に過ぎないとした。

 血縁は婚姻を基礎として、存続するので、外部から新規のメンバーを迎える他ない。しかし、現在の構成員が誰であるかは集合意識の後景に追いやられる。その際に用いられる論理的飛躍は、「王権神授説」・「純粋人種」・「血統」などの虚構によって補われる。

 

常に変化する文化

 文化の連続性もまた、「伝統の創造」によって支えられている。ex:国語、キルトなど

 

心理現象としての同一性

 民族のメンバーは絶えず入れ替わる。日本では、100年程度でまるっとメンバーが入れ替わる。常に入れ替わるに関わらず、同一性が維持されるのだろうか。答えは、至極単純だ。その速度があまりに遅いのである。また、ヒトは季節によって意識が断続されるわけではないので、なおのことである。

 変化と同一性が両立させる可能性として次の二つが検討されてきた。

①常在不変の実体

②①を否定し、錯覚とする。

小坂井は②の立場をとる。②は、主観的な立場である。しかし、客観から切り離されたものではない。間主観的なものである。同一性と変化は、主観―対象―他者関係から、理解されるべきである。

 虚構の物語を無意識的に作成し、断続的現象を常に同一化する運動が無ければ、連続性は我々のまえに現れない。民族の記憶や文化と呼ばれる表象群は常に変遷し、一瞬たりとも同一性を保っていない。したがって、結局のところ我々が問題にすべきは、集団的同一性がどのようにして変化するかではなく、虚構の物語として集団的同一性が各瞬間ごとに構成・再構成されるプロセスの解明だ。